あるキング

あるキング

「BOOK」データベースより
天才が同時代、同空間に存在する時、周りの人間に何をもたらすのか?野球選手になるべく運命づけられたある天才の物語。
山田王求はプロ野球仙醍キングスの熱烈ファンの両親のもとで、生まれた時から野球選手になるべく育てられ、とてつもない才能と力が備わった凄い選手になった。王求の生まれる瞬間から、幼児期、少年期、青年期のそれぞれのストーリーが、王求の周囲の者によって語られる。わくわくしつつ、ちょっぴり痛い、とっておきの物語。



なんだかちょっとちがう・・・

伊坂さんの作品はどれも好きだったのに・・・



特別すぎて、居ないことにしてしまう・・・?!
そんなに肝っ玉小さい人ばかりじゃないだろう!
それは設定に無理ありすぎだよ。。。と、とっても違和感感じながら
読んだのですけど。


いきなりですが
昨日、TV番組で「小公女セーラ」を見ました。
もちろん、永遠の名作「小公女」の現代版です。

その中で、いつも正しいセーラは
「悪」「疫病神」扱いされていました。
セーラの凄さを認めると、セーラのように出来ない自分を否定しなくては
ならないから。。。という理由で。
真正面からの「正義」は、人をイラつかせ、「正しさ」は一つでは
ないのだと。

イラつくというのも少しはわかる。
わかるけれども、ちっちゃいなぁ。

結局、理解出来ないものは排除。皆と違うことは認められない。
「小公女」を書かれた時より現代は遥かに懐が狭くなっている。
懐が狭いことを棚にあげて、セーラはかわいくない。という。。。
そうか?いいのかそれで!



で、翻って、この「あるキング」の王求のこと。
真っ向から野球の為に頑張って、野球だけの為にトレーニングを続けていて
そして、特別になった「王」なのに、
特別過ぎるってどういうこと?認めないって、居ないのと同じって
そうか?いいのかそれで!



いやいや、ファンタジーだしね。

そんな切り口で描くのも、時にはいいのだろう。

でも、私はイヤだ!



基本、私は何か一つのことにだけでも自信を持っていて「俺様」的な人は好きで、
しかもそのプロフェッショナルな部分を生かして、どんどんのしあがっていく「成功物語」は大好きなわけで。

だから、こんな書き方だと違和感すぎて「なんだか違う!!!」って騒ぎたい!

大体、この両親がまず嫌いだし。
息子を認めるのはいいよ。何を熱狂的に支持したって全然構わない。
でもね、でも、他を排除するのはまずい。
支持するものと対立するものは一切、そこに存在することすら認めないって考えは
結局身を滅ぼすと思う。